ベトナムで製造拠点を確保する前に知っておきたいこと(後編)
― 正式な土地賃貸借契約と、起きやすい五つの紛争 ―
前編に続き、弁護士法人ベトホ(BETOHO LAWFIRM)代表弁護士 BUI HONG DUONG 氏にご執筆いただいた連載「ベトナムで製造拠点を確保する前に知っておきたいこと」の後編をお届けします。
前編では、レンタル工場と、土地を借りて自社工場を建てる方法との違い、そして候補地決定後に締結するMOU(覚書)が、名称にかかわらず実質的な権利・義務を発生させうる点を解説いただきました。
(前編はこちら ベトナム製造業投資・実務シリーズ 第1回(前編) )
後編となる今回は、投資許可取得後に締結する正式な土地賃貸借契約で投資家が持つ権利の範囲、借主・貸主以外に登場する関係者との利害関係、そしてこの段階で実際に起きやすい五つの紛争パターンについて解説いただきます。
目次
5.正式な土地賃貸借契約と、投資家が持つ権利
6.土地を借りると、関係者は二者では終わりません
7.この段階で起きやすい五つの紛争
おわりに――慎重な判断を、法的な仕組みと合わせる
5.正式な土地賃貸借契約と、投資家が持つ権利
投資プロジェクトが承認された後、当事者は正式な土地賃貸借契約を締結します。この契約は、投資家が対象地をどの範囲で、どの期間、どの条件で使用できるかを定める重要な根拠です。必要な条件を満たす場合には、土地使用権および土地に付着する資産の所有権に関する証明書の取得手続も検討します。
ただし、証明書があるからといって、土地を所有するわけではありません。ベトナムでは土地は全人民所有であり、投資家が持つのは、法律、使用期間、契約および支払方式によって範囲が定まる土地使用権または賃借上の権利です。
特に、全賃貸期間分を一括して支払う方式と、年払い方式とでは、一般に、土地使用権の譲渡、転貸、担保設定、土地上の資産の処分などに関する権利の範囲が異なります。また、工業団地内での転借である以上、インフラ事業者が有する土地の権利、土地賃貸の残存期間、投資プロジェクトの期間、正式契約の内容にも影響されます。
そのため、正式契約では、次の点まで確認しておく必要があります。
- 賃料の支払方式と価格改定の仕組み
- 土地使用権等に関する証明書を取得できる条件
- 工場・設備を担保に入れる場合の手続と貸主の協力義務
- プロジェクトや土地上の資産を譲渡する場合の条件
- 契約終了時に工場・設備をどのように処理できるか
これらは、将来の資金調達、事業譲渡、撤退時の資産回収に直接関係します。工場建設に多額の資金を投じた後で、自社資産を自由に処分できないと分かることも、実務では決して珍しい話ではありません。
6.土地を借りると、関係者は二者では終わりません
土地を借りて工場を建設するプロジェクトでは、借主と貸主のほかにも多くの関係者が登場します。それぞれの役割だけでなく、誰から報酬を受け、誰と利害関係を持つのかを把握しなければ、情報の客観性や意思決定に影響が出ることがあります。
| 関係者 | 主な役割 | 実務上確認したいこと |
|---|---|---|
| 仲介会社・立地アドバイザー | 候補地の検索、工業団地の紹介 | 紹介先や建設会社から報酬を受ける関係がないか |
| 工業団地のインフラ事業者 | 土地・インフラの提供、MOU・正式契約の相手方 | 土地の法的状態、財務能力、整備進捗、約束した支援内容 |
| 行政機関 | 投資、土地、建設、環境、消防等の審査・許認可 | 一つの許可だけで建設・操業の全てが認められるわけではないこと |
| 電力・水・排水・廃棄物処理事業者 | 工場操業に必要なサービスの提供 | 容量、接続条件、料金、供給停止時の責任、事業者選択の制約 |
| 設計・建設請負業者 | 工場の設計・施工 | 能力、価格、契約条件に加え、紹介者との資本・報酬関係 |
仲介会社は、誰の側に立っているのか
候補地を紹介する仲介会社が、インフラ事業者から紹介料を受けている場合があります。仲介会社自身が、将来の建設工事を受注したい会社やその関係会社であることもあります。その関係自体が直ちに問題というわけではありません。ただ、報酬や利害関係が開示されないままでは、なぜその候補地が強く勧められているのかを判断できません。
可能であれば、候補地の法的・技術的評価は、紹介取引から独立した立場でも確認しておく方が安心です。
「指定に近い建設会社」には理由とリスクの両方があります
工業団地側から、「この建設会社なら当団地の手続や接続に慣れているので早い」と説明されることがあります。実際、その会社に経験があり、調整がスムーズになることはあります。
一方、建設工事は金額が大きく、選定過程が不透明であれば、紹介料や利益分配によって価格や品質の評価がゆがむ余地も大きくなります。私たちが扱った建設紛争でも、技術上の問題だけでなく、発注前の選定過程や関係者間の利害が、紛争の背景にある案件がありました。
紹介された会社を最初から排除する必要はありません。ただし、能力、実績、価格、契約条件を独立して比較し、インフラ事業者との資本関係、業務提携、紹介料その他の経済的関係があるかを確認することは大切です。
7.この段階で起きやすい五つの紛争
| 典型的な紛争 | どの段階で表面化するか | 争点・影響 |
|---|---|---|
| MOU締結・入金後も、貸主が土地やインフラの条件を整えられない | 投資許可の申請前後 | MOUの効力、返金、違約金、損害賠償 |
| MOUと正式契約の条件が違う | 投資許可取得後 | 新しい費用、不均衡な条項、交渉余地の喪失 |
| 工業団地全体の潜在的な法的問題 | 操業開始から数年後 | 土地関連債務、無権限の転貸、法令違反、土地回収の影響 |
| インフラ事業者の買収・合併、支配権変更 | 長期の賃貸期間中 | 料金・運営方針の変更、契約解釈、権利義務の承継 |
| 契約が借主の権利を過度に制限 | 資金調達、譲渡、撤退時 | 担保、譲渡、転貸、資産処分、解除権の制約 |
| 制限 | 解除権の制約 |
① 予約金を払ったのに、プロジェクトを申請できない
工業団地や産業クラスターは、段階的に整備されることがあります。インフラ事業者が予約金を受け取った後、その資金も利用して造成やインフラ整備を進めるケースもあります。ところが、事業者の資金力が不足し、土地手続、用地整備、インフラ工事が約束どおりに進まなければ、入居企業は予定した投資プロジェクトを実施できません。
この場合、MOUの解除、予約金の返還、違約金、損害賠償が問題になります。しかし、MOUに返金条件、許可を取得できない場合の責任、整備期限、違反時の効果が明確に書かれていなければ、請求は簡単ではありません。紛争が起きて初めてMOUを見直すのではなく、入金前にその法的性質を整理しておく意味は、ここにあります。
② MOUは一つ、正式の賃貸契約は別の内容
投資許可を取得した後の正式契約で、管理費、インフラ使用料、保守費、排水処理費、価格改定条件などが新たに示されることがあります。さらに、貸主の一方的な変更権や解除権が加えられる場合もあります。
この時点では、投資場所はすでに特定され、予約金も支払い済みです。別の土地へ移れば、手続を最初からやり直すことになります。法的には交渉できても、事業上の選択肢が少なくなっているため、実際の交渉力はMOU締結前より弱くなります。
③ 数年後に、工業団地側の問題に巻き込まれる
インフラ事業者による土地関連の支払義務の不履行、土地の目的外使用、無権限の転貸、事業進捗違反などは、入居時には見えず、数年後に表面化することがあります。許認可過程に談合、贈収賄その他の重大な違反があれば、関連する決定や取引が再検討される可能性もあります。
入居企業自身に違反がなくても、工業団地プロジェクトが停止・変更され、または土地回収の問題が生じれば、工場や設備への投資が影響を受けます。そのため、調査対象を借りる区画の書類だけに限定せず、工業団地全体の土地手続、財務義務、整備状況、法令遵守の履歴まで見る必要があります。
④ 長期契約の途中で貸主が変わる
インフラ事業者が買収・合併され、支配株主が変わることもあります。新しい運営者が料金体系や管理方針を変更し、従来の契約を自社に有利に解釈しようとする可能性も否定できません。
契約には、事業譲渡、組織再編、支配権変更があった場合の権利義務の承継、料金変更の限界、インフラサービスを継続する義務をあらかじめ定めておくことが望まれます。
⑤ 法律上認められる余地があっても、契約で動けない
インフラ事業者のひな型には、担保設定、プロジェクト譲渡、転貸、製造内容の変更、工場の処分、契約解除などについて、借主の権利を必要以上に制限する条項が含まれることがあります。また、貸主に料金の一方的変更、インフラ供給の停止、早期解除などの広い裁量を認めている場合もあります。
法律上可能であることと、契約上スムーズに実行できることは同じではありません。契約交渉では、不利な条項を削るだけでなく、価格改定の上限・手続、違反を是正する期間、担保・譲渡時の協力義務、土地上の資産の処理、貸主の違反に対する補償まで、実際に使える仕組みにしておく必要があります。
おわりに――慎重な判断を、法的な仕組みと合わせる
日本企業が最初は短期間のレンタル工場を選び、ベトナムでの事業を見ながら次の投資を判断したいと考えることは、よく理解できます。また、長期的な生産体制を見据え、土地を借りて自社工場を建てることにも大きな合理性があります。
問題は、どちらを選ぶかではありません。事業上の前提と、投資期間、土地・建物に対する権利、契約上の条件が、同じ方向を向いているかどうかです。
紛争になった案件を振り返ると、当事者間に何も合意がなかったケースよりも、合意はあったものの、必要な条件が書かれていなかったケースの方が多くあります。そして、正式契約より前の、候補地選び、関係者の利害確認、MOUの数ページが、後の数十年にわたる投資を左右することがあります。
大きな投資を前に慎重になることは、決して消極的な姿勢ではありません。その慎重さを、確認すべき資料と交渉すべき条項に落とし込めれば、経営判断はより確かなものになります。本稿が、ベトナムで製造拠点を検討する際の論点整理に少しでも役立てば幸いです。
本シリーズでは、本稿の「製造拠点の不動産に関する権利の確保」に続き、ベトナムの利点・優遇措置、準備段階から工場稼働までの法的手続、日本本社との関係を含むガバナンス・コンプライアンスと現地運営の調和、人事管理と不正行為への対応を取り上げる予定です。