シンガポールの街角から
シンガポールの街から「欧州車の時代」が終わる
—— 上期の乗用車販売、EVがついに6割に
(前編からの続きです)
「台数が増えた」の正体 ——市場は回復途上、伸びしろは中国EVへ
ここで一つ、冷静に押さえておきたいことがある。「新車の登録が前年比13.3%増」と聞くと市場が絶好調のように響くが、絶対量で見ると話は少し違う。
シンガポールの新車市場は、車両の総量を政府が管理するCOE(車両購入権)制度によって台数の上限が事実上コントロールされている。そのため総登録台数は、需要そのものよりもCOEの発給枠に大きく左右される。私が移り住んだころの2017〜2019年は年7万〜9万台規模だったが、コロナ禍とCOE枠の絞り込みで市場は急収縮し、2022〜2023年には年3万台程度まで落ち込んだ。足元はそこからの回復局面にあり、2024年は前年比42.3%増の4万3,022台、2025年は同22.4%増の5万2,678台と数字こそ大きく伸びているものの、水準はいまだ2010年代のピークには遠く及ばない。
シンガポールの新車登録台数の推移(全ブランド)
| 年 | 新車登録台数 | 前年比 | 局面 |
| 2017年 | 91,922 | — | 2010年代の高水準 |
| 2018年 | 80,281 | ▲12.7% | |
| 2019年 | 72,344 | ▲9.9% | |
| 2020年 | 44,465 | ▲38.5% | コロナ禍で急減 |
| 2021年 | 45,442 | +2.2% | |
| 2022年 | 30,939 | ▲31.9% | COE価格が倍増し底値圏へ |
| 2023年 | 30,225 | ▲2.3% | 直近の底 |
| 2024年 | 43,022 | +42.3% | 回復局面入り |
| 2025年 | 52,678 | +22.4% | |
| 2026年上半期 | 27,144 | +13.3%※ | ※前年同期比 |
出所:陸上交通庁(LTA)。単位:台。
つまり、足元の「増加」の相当部分はコロナ後の“回復”であって、市場そのものが往時の規模を取り戻したわけではない。本当に注目すべきは、この限られたパイの中身が総入れ替えされている点だ。象徴的なのは、2023年から2024年にかけて市場全体が1万2,797台増えたうち、その約4割にあたる4,993台をBYD一社の伸びが叩き出したという事実である。増えた分のほとんどが中国勢を中心としたEVに吸い込まれていった、というのが実態に近い。
コロナ後の「中国系流入」と、BYD急伸の符合
もう一つ、現地に暮らす者として触れておきたい観点がある。コロナ後、シンガポールへの中国本土からの人と企業の流入には、目を見張るものがあった。
数字がそれを裏付けている。中国系富裕層の資産管理拠点であるファミリーオフィスは、2020年の約400から2022年には約1,100へと急増。2022年には高級住宅購入者のおよそ4分の1を中国本土出身者が占めたとされ、可変資本会社(VCC)の設立・移転も相次いだ。街を歩けば、以前より明らかに普通話(標準中国語)を耳にする機会が増えた——これは私の日々の実感でもある。
興味深いのは、この人と資本の流入の波と、BYDの販売急拡大が、ほぼ同じ時期に重なっていることだ。BYDのシンガポールでの新車登録は、2019年にわずか3台、2021年でも786台にすぎなかったものが、2022年1,416台、2023年6,191台、2024年には1万1,184台へと爆発的に伸びた。中国系マネーの流入がピークを迎えた時期と、BYDが跳ねた時期は、見事なまでに符合している。

BYDの新車登録台数の推移
| 年 | 台数 |
| 2019年 | 3 |
| 2020年 | 89 |
| 2021年 | 786 |
| 2022年 | 1,416 |
| 2023年 | 6,191 |
| 2024年 | 11,184 |
| 2026年上半期 | 6,828 |
出所:陸上交通庁(LTA)。単位:台。
ただし、公平を期すために断っておきたい。「中国人がBYDを買っているから伸びた」ことを直接示す統計があるわけではない。BYD躍進の主因は、あくまで政府のEV優遇策と、幅広い価格帯で一般家庭の実需を取り込んだ商品戦略にある——そう捉えるのが妥当だろう。
とはいえ——母国ブランドに親しみを持つ層が数万人規模で増え、中国企業の進出が相次いだことが、BYDをはじめとする中国ブランドへの心理的なハードルを下げ、普及の土壌をならした面はあるのではないか。統計で証明できる話ではなく、あくまで一つの仮説である。だが、私が毎日眺めている街の景色の変わりようとは、驚くほどよく符合するのだ。
政策が押し上げるEVシフト —— 工場・投資の視点から
この地殻変動を根っこで支えているのは、政府の政策だ。シンガポールは、環境性能の良い車を優遇し悪い車には課金する仕組み(VES=車両排出ガス・スキーム)と、EV購入を後押しする補助(EEAI=電気自動車早期購入報奨)を組み合わせ、EVへの乗り換えを制度的に誘導してきた。裏を返せば、EVの普及ペースは政策の匙加減次第でもある。こうした優遇が今後どこまで、いつまで続くのかは、市場の行方を左右する変数として注視しておきたい。
海外の生産・投資動向という弊社サイトの観点から補足しておくと、この流れはシンガポール一国の話にとどまらない。中国のEVメーカーは、タイやインドネシアといったASEAN域内に相次いで生産拠点を新設しており、域内で「作って・売る」体制を着々と整えつつある。シンガポールはそもそも自動車生産国ではなく完全な輸入市場だが、その販売動向は、中国勢がこの地域でどれだけ本気かを映す“ショーウィンドウ”でもある。今回の上半期の数字は、東南アジアの自動車マップが塗り替わりつつあることを、消費地の側から示していると見てよいだろう。
では、日本勢はどう巻き返すのか。当面の足場は、やはり得意のHVだろう。充電インフラや電力事情から純EVをためらう層は当分残り、その受け皿としてHVはなお有効だ。そのうえで、日本車が本来強い“買った後”の価値——故障の少なさ、下取り価格の底堅さ、きめ細かな整備網——をどう訴えるかが鍵になる。新車の販売台数だけでEV勢と正面からぶつかるより、保有期間全体の満足度で選ばれる道を探るほうが、日本勢の持ち味に合っている。シンガポールの街の変わりようを毎日眺める一人として、その底力に期待したい。
(本記事の統計データは、シンガポール陸上交通庁〈LTA〉の公表資料および政府データポータル〈data.gov.sg〉の新規登録台数・燃料別・ブランド別データを一次情報として使用しています。過去〈2018年・2022年〉の販売動向は業界メディア〈carbuyer.com.sg、WapCar〉、中国系流入に関する数値は報道〈Asia Times ほか〉を参照。トヨタ正規代理店のEV展開計画に関する記述はNNA ASIAの報道に拠ります。本文の分析・見解は、いずれも筆者独自のものです。なお「中国系の流入とBYD販売の関係」は確定的な因果ではなく、筆者による一つの考察です。)
次回予告
「クルマの次は、工場建設も「主役交代」 ~ 半導体は台湾勢、医薬は中国勢へ ~」と題して、シンガポール建設レポートをお送りいたします。